2017年4月10日月曜日

アンビバレンツ

 辞書的な意味は「両極性」「両面感情」「両面価値」とあります。大学の福祉関係の講義では「愛情と憎悪」として展開することもあります。ここでは「愛情と怒り」と仮定します。「愛情」があるから「怒り(憎しみ)」という感情が芽生えるということです。「好きだ」の反対語は「嫌いだ」です。私は「好き」の反対語は「無関心」だと思っています。異性として最も意識しているから「好きだ」という感情が芽生え、嫌いになったりします。逆に異性として全く意識しないことこそ好きではない状態だと思うのです。
 
 翻ってワンセ。私は授業中によく注意します。はっきりと「怒る」と書いたほうがいいのでしょう。誰かの「言動」に対して「だめだ」という感情をストレートに伝えるのです。昔とは違い、怒ったときの理由を説明するようにしています。そういう点で最近の子たちへの指導は20年前は大きく異なっていますね。私の持論では伝えたいことを10として、5・6言えば伝わる子にはそれなりの言い方で、半分ほどしか伝わらない(鈍い)子には20ぐらいの感覚で伝えます。それが厳しいと部外者に敬遠されても変わらないです。もし均一の注意をしたら「平等の不平等」が生じ、教育者としてダメだと思うのです。

 大手塾の新人時代に「子どもは泣くのが仕事」と吹聴し、当時の上司に「自分で責任を持てる立場になったとき同じことを言えて一人前だ」と諭されました。今でも根本的な考えは変わりません。子育てのとき、子どもが泣いた途端に態度を変えれば子どもは「泣けばなんとかなる」と考えるようになるだけでしょう。泣いたかどうかで指導が変わることもありません。もちろん過呼吸になれば対処は全然違ってきますが。

 最近の若手講師は子どもたちを本気で叱れません。その子に責任を持てないからです。「叱る=怒る」は当ブログで何度も述べているので繰り返しになりますが、辞書には間違いなく「怒る=叱る」とあります。誰かが勝手に「叱っても良いが怒ってはいけない」と偽善者ぶって嘘を広めているのでしょう。例えば乳児には理性がありません。怒られたら怖い、だからやらない、ことから始まるのです。理性のない乳児期の躾は理性で行うのではなく、明確な「マイルール」が存在し厳守されていれば全く問題ないと思うのです。親は愛情があるから子どもを怒れるのです。愛情と信頼関係(絆)があるから成り立つ、社会で最も基礎的な社会集団である「家族」になるのでしょう。

 怒れない、叱れないのはその子に対して愛情が希薄なだけです。子どもたちが宿題を忘れたり、精魂込めて作ったプリントを忘れたり、補習した内容を復習せず再び忘れてきたときに「怒り」ではなく「ダメな子だ」という感情が先に立つようでは、子どもとの信頼関係など永遠にできません。愛情があるからこそ「怒り」という感情が芽生えるのです。それを私は否定しません。子どもたちに対してストレートに伝えます。「私は怒っている。なぜなら〇〇を君がしたからだ」と。同時に怒ってはいるけれど、決して人間性を否定しているのではない。悪い点を改めてほしいだけだ、ということも時には伝えます。そこまでする必要のある最近の子たちは面倒ですね笑

 マイルールにあるのが「怒られたら全てチャラ」です。怒られるというペナルティを受けたのですから、それを次回以降に蒸し返す必要はありません。子どもがした小さいミス(約束破り)なんかすぐに忘れます。「空気入れ替えようか」の一言で教室は再び和やかな雰囲気になります。愛情があるからこそ「許す」ことが容易にできるのです。だって、怒りの原因はその場の言動であり二度としないのであれば全く問題ないでしょう。

 相手を許せない怒りはただの自己中心的な「感情を弱者にぶつけている」だけの蛮行です。ただ「許す」ことは非常に難しいですね。絶対に許してもらえるとわかると、人間はその行為に甘えて相手を傷つける言動をしがちです。恋愛は惚れたら負け、ですから。惚れていても、それを弱みととらえず、「感謝」「報恩」という情で返せる関係は何事においても理想だと思うのです。